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ゆうあい工房

ゆうあい工房

お好み焼きの歴史・・中国から・京都から

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●お好み焼きの歴史について
http://www.digitec21.co.jp/nanphu/rekishi.html

1.中国の煎餅(センビン)
センビンとは、小麦粉を水で溶いて平らに焼いただけの、とてもシンプルな食べ物。これは中国で昔、庶民が主食とし食べていたもの。あの孔子も食べていたらしい。このセンビンが中国でいろんな形に変化してゆくわけである。そうこうする間に、遣唐使のおみやげとしてこのセンビンが日本に伝わることになる。

2.ふの焼き
千利休が主催した「利休百会記」という茶会の資料によると、そこでふるまわれた懐石料理は、鮭の焼き物、菜汁、鮒のなます、めし、鯛の酒びて、おぼろしみふ、菓子ふの焼き、となっている。問題はふの焼き。このふの焼きの製法をみると、うどん粉を水と酒でねり、煎り鍋に薄く伸ばして焼く。固まるときに山椒入りの甘味噌を塗って巻き込み、1センチほどの幅に包丁し、切り口を見せて盛る、とある。利休はこのふの焼きの発想をどこで得たのか?一説では、センビンからヒントを得たのではないか、ということ。

3.もんじゃ焼き
利休によって考案されたふの焼きをリバイバルしたのが、江戸麹町十一丁目の助惣である。この店のふの焼きは長い間江戸の名物になっていた。余談だが、このふの焼きの製法にヒントを得て出現したのが桜餅らしい。もんじゃ焼きがふの焼きにとってかわって下町に登場したのは明治の終わり頃。なぜもんじゃ焼きがふの焼きの子孫かというのは、もんじゃ焼きもふの焼き同様駄菓子屋を出自としてる理由から証明される。その頃のもんじゃ焼きの主材料は桜えび、きりいか、揚げ玉、紅生薑と野菜、それにほとんど水に近い小麦粉の生地だけ。駄菓子屋の子供には人気あったようだ。ちなみに、もんじゃ焼きの名前の由来は、鉄板の上で子供達に文字を教えたとか、ヘラで文字を書くようにかき回しながら焼いたとか、とらえどころがない「なんじゃもんじゃ」からであるとか、いろんな説がある。そのうち、明治の東京下町を太鼓を叩きながら売り歩く「どんどん焼き」が現れる。

4.どんどん焼きが全国に
もんじゃ焼きは関東大震災以降、こうして下町の根強い人気に支えられ、ようやく市民権を獲得したが、箱根を越えることなく東京のみのローカルな食べ物のまま戦後を迎える。他方、東京でいまひとつパッとしなかったどんどん焼きは、思わぬ広がりをみせて日本の町々に根付いていく。東京生まれのもんじゃ焼きがどんどん焼きに名前と姿かたちを変えた経緯は、仕事の段取りからいって仕方ないことだったのだろう。屋台をひいた路傍の商いでは、駄菓子屋のように鉄板のスペースを子供達に全面開放するわけにはいかない。いきおいどんどん焼きは、固めにコンパクトに焼かざるを得ない。ゆえに、どんどん焼きはお持ち帰り専門だった。こうして表通りに出たどんどん焼きは、地方の都市ではふたたび駄菓子屋に落ちつくことになる。そして名前もハイカラに「一銭洋食」と変わっていった。

5.どんどん焼きが全国に
当時の一銭洋食はどのようなものか?まず、水で溶いたうどん粉の生地を玉杓子に一杯分すくって鉄板にながす。直径20センチくらいの薄焼きの上に粉かつお、ネギ、とろろ昆布をパラパラとのせ、つなぎの生地を3、4滴たらす。適当なところでひっくり返し、一度ヘラで軽く押さえてまた表にひっくり返し、ソースを塗ってできあがり。これは、現在の広島風お好み焼きにかなり近い。そして今に至るのである。

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●知っといやすか?
  http://www.dab.hi-ho.ne.jp/sasroku/youshoku.html
京の昔の庶民の味”一銭洋食”
~お好み焼きのルーツ~
昭和の初め頃、京の庶民に広く親しまれていたもので、小麦粉を水で溶き、京野菜の代表的存在である九条ねぎ・干えび・紅しょうが等を入れて焼いたもの。当初は一銭で売られ、安いソースものという意味で”一銭洋食”もしくは”べた焼き”と呼ばれていました。東京の「もんじゃ焼き」、仙台の「どんどん焼」、広島の「広島焼(広島風)」とともにお好み焼きのルーツと言われています。当店では、この昔の庶民の味を今に美味しく再現し提供致しております。

 



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